金があるということの意味は、物が買えるという点にとどまるものではない。それは、自分が世界から影響されずに済むということでもあるのだ。いいかえれば、快楽ではなく、防御という意味における富。金のない子供時代を送り、ゆえに世界の気まぐれに翻弄されつづけてきた父にとって、富という概念は逃避という概念と同義になっていた。危害からの逃避、苦しみからの逃避、犠牲者の立場からの逃避。父は幸福を買おうとしていたのではない。不幸の不在を買おうとしていたのだ。金こそその万能薬だった。人間としての父のもっとも深い欲望、もっとも言いあらわしがたい欲求の具現物だった。父は金を使うことを欲しなかった。金をもつこと、金がそこにあるのを味わうことを欲した。つまりは不老不死の霊薬としてではなく、解毒剤としての金。ジャングルに出かけるときにポケットに忍ばせておく小さな薬壜(くすりびん)――毒蛇に嚙まれたときの用心。 — <p><a href="http://d.hatena.ne.jp/rojineko/20110322/p4" target="_blank">ポール・オースター『孤独の発明』(柴田元幸 訳) - つれづれ</a> (via <a href="http://ginzuna.tumblr.com/" target="_blank">ginzuna</a>)</p>
<p>■ すごく理解できる感覚。</p>
<p>(via <a class="tumblr_blog" href="http://arcadia-art-t.tumblr.com/" target="_blank">arcadia-art-t</a>)</p>