あなたがたの友人たちに示す愛や慈悲心は、実際には執着心である場合が多いのです。この感情は、「全ての生あるものは幸せになり、苦しみを避ける権利を等しく有している」ということを理解したところより発したものではありません。この感情は、「私のもの」から発しています。<br/>
例えば、「私の友人」、「私にとっていい何ものか」というところから出て来ているのです。これは執着心です。その友人なり誰かがあなたに対する態度を変えたら、あなたの彼(彼女)に対する親愛の情はたちまち消えうせます。その人が人類の仲間であり、苦しみを克服する権利を持っていることをシンプルに認めることによって、その人を思いやるべきです。ここが執着心と慈悲心の大きな違いです。真の慈悲心とは、健康的で理性に裏打ちされたものなのです。執着心は偏狭で捻じ曲がったものと言えます。 — <p><a href="http://www.tibethouse.jp/" target="_blank">ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 LIAISON OFFICE OF H.H.THE DALAI LAMA for Japan&East-Asia</a> (via <a href="http://masaka.tumblr.com/" target="_blank">masaka</a>)</p>
<p>loveの訳語という意味が与えられる以前の「愛」は「執」の意味に近いとか。執のない愛を慈悲や博愛(西洋)と。</p> (via <a href="http://ishibashi.tumblr.com/" target="_blank">ishibashi</a>) (via <a href="http://yukio.tumblr.com/" target="_blank">yukio</a>)
<p>執着≡愛</p>