<p>安野 子供から大人に成長する過程で、ある日芸術を間違って解釈して、途端に道を逸れていくような人がいると思うんだけど。</p>
<p>谷川 自分は芸術家じゃない、芸術は鑑賞するものであって、自分の中の芸術的な創造力を全く信用しなくなるということはありうるね。</p>
<p>安野 そうそう、美意識なんてなくなって、説明されなきゃわからない。つまり、言葉で説明しないと何もわからなくなる。音楽も、絵も言葉で説明すると何かわかったような気になっちゃうという人がいる。</p>
<p>谷川 それはいわゆる教養主義的な側面で、代替、学校教育はそういう線でいってるんだよ。でも、それとは全く対照的にフィーリングという人もいるわけですよ。つまり、言葉で何一つ説明できない、何となく感じがいいとか、恰好がいいとか。それはもしかしたら同じことかも知れない、自分の本当の意味での感性を開拓していないという点ではね。<br/>
言葉で説明できるというと、何か言葉が悪いようで、言葉人間である私としては反論したくなるわけですよ。(笑)</p>
<p>安野 言葉で説明しうるというのが論証ならばいいんですよ。でも占い師の言い分みたいないんちき説明もあるでしょう。言葉ではついに説明しきれないかもしれないフィーリングの世界にはいんちき説明が成立する場合があるから困るんだ。言葉でさわればさわるほどわからなくなってしまう世界もあるんじゃないかという気がするんだけどね。</p>
<p>谷川 子どもの場合は、そういう世界がまだ未分化だから、子どもが描いた絵も、書いた詩も面白いと言うことになるんだろうね。それが結局、教育あるいは周囲の環境によってパターン化しちゃって、つまり決まり文句になる。恐らくその辺から教え込んで画一的に周囲と協調しながら働く人間が大量に必要なのが日本の社会なんですよ。だから本当に子どもの頃の感性を持ち続けていく人間は、今の日本じゃ生きていけないんじゃないかな。</p>
<p>安野 そうかもしれないね。</p> — (谷川俊太郎対談集2 「子どもの頃の謎 安野光雅」) (via <a href="http://breathnoir.tumblr.com/" target="_blank">breathnoir</a>) (via <a href="http://repsychose.tumblr.com/" target="_blank">repsychose</a>)