<p>フランスの詩人アンドレ・ブルトンがニューヨークに住んでいたとき、いつも通る街角に黒メガネの物乞いがいて、首に下げた札には</p>
<p> 私は目が見えません</p>
<p>と書いてありました。彼の前には施し用のアルミのお椀が置いてあるのですが、通行人はみんな素通り、お椀にコインはいつもほとんど入っていません。ある日、ブルトンはその下げ札の言葉を変えてみたらどうか、と話しかけました。物乞いは「旦那のご随意に」。ブルトンは新しい言葉を書きました。<br/>
それからというもの、お椀にコインの雨が降りそそぎ、通行人たちは同情の言葉をかけていくようになりました。物乞いにもコインの音や優しい声が聞こえます。数日後、物乞いは「旦那、なんと書いてくださったのですか」。<br/>
下げ札にはこう書いてあったそうです。</p>
<p> 春はまもなくやってきます。<br/>
でも、私はそれを見ることができません。</p>
<p> 誰が見てもうらぶれた物乞いです。黒メガネをかけているのだから盲人であることも分かります。「私は目が見えません」は言葉の意味をなしていないのです。<br/>
アンドレ・ブルトンの言葉のほうには、訴えるものがあり、憐れみを乞う力があり、人に行動を促す力、もっとえげつなく言えば集金能力がありました。目的はそれだったのです。読んでもらって、施しの気持ちを起こさせ、施しをいただくこと。<br/>
目的を果たしてこそ、言葉です。</p> — <a href="http://www.enpitu.ne.jp/usr6/60769/diary.html" target="_blank">活字中毒R。</a> (via <a href="http://gickonbattan.tumblr.com/" target="_blank">gickonbattan</a>) (via <a href="http://nemoi.tumblr.com/" target="_blank">nemoi</a>) (via <a href="http://oharico.tumblr.com/" target="_blank">oharico</a>) (via <a href="http://haiyamanakadesu.tumblr.com/" target="_blank">haiyamanakadesu</a>) (via <a href="http://uessai-text.tumblr.com/" target="_blank">uessai-text</a>)