<p>米国の2つの大学の研究者が行なって、話題となった実験がある。数人の若者にバスケットボールをしてもらい、別の数人に「60秒間に何回パスをしたか?」を数えてもらう。その最中、なぜか着ぐるみのゴリラが現れてコートの中を歩きまわり、こちらを向いて胸をボコボコボコと叩いて去っていく。まったく異常な出来事が起きたわけだが、数えている側の約半数は、ゴリラが入ってきたことに気がつかなかったという(『Scientific American MIND』“How Blind Are We?” June 2005)。</p>
<p> そんなことあるの? と思われる方は、友達や同僚を使って似たような実験をすることも可能だ。数百字の英文に含まれる「f」の文字を数えてもらう。すると「if」や「of」を見落としてしまう人がかなりの割合で出てくるのだ(文章の内容にもよるのだが)。人間というのは、知る必要がないと思っていることは、たとえ相当に強烈な信号であっても頭に入ってこない(「不注意的盲目」という)。</p>
<p> 2000年代中盤以降のネット業界について、「Web 2.0」ということがさかんに言われた。Web 2.0とは、米国で「ネットバブル崩壊後も生き残ったサービス」に共通する特徴を捉えたもので、その主役はGoogleだった。しかしWeb 2.0以降も、ネットがさらに大きな変貌を遂げているはご存じのとおりだ。そのプレイヤーは、Apple、Facebook、ソーシャルゲーム各社、Twitter、Foursquare、Netflix、Groupon、Evernote……。もっと多くのサービスを挙げられる人も少なくないだろう。</p>
<p> ネットが変化を続けているのと同じように、ネットと関係することでリアル社会が変化することも指摘されてきた。Web 2.0が唱えられた同じ時期には、トーマス・フリードマンが、ネットによってホワイトカラーの仕事から“距離”が消失し、アメリカ人とインド人が同じフィールドで戦わなくてはならなくなったと、『フラット化する世界』(伏見威蕃訳、日本経済新聞社刊)で書いた。</p>
<p> ジェームズ・スロウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい』(小高尚子訳、角川書店)は、一人一人の個人の意見の積み重ねが価値を持ちえ、それがネット時代になって顕著になったと述べた。ローレンス・レッシグは『REMIX ハイブリッド経済で栄える文化と商業のあり方』(山形浩生訳、翔泳社刊)で、商業経済と共有経済がリミックスしていくと指摘している。</p>
<p> しかし、ネットの世界において、これらよりも大きなインパクトを与えつつあるのが「ソーシャルメディア」だ。これについては、目下、事態は「進行中」であり、優れた分析もされているが、その解釈も変化している。こうした議論は、詰まるところ、ネットとは「コンピュータのネットワーク」ではなく、「人と人のネットワーク」だったという結論に向かっていると思う。</p>
<p> 正直なところわたしもそうなのだが、日々流れてくるニュースを追ったり、新しいサービスを試すことで、ほとんど手一杯になっている。FacebookやAppleやGoogleなどの企業の活動やサービスを追って、それらの断片的な情報を、ジグソーパズルのようにつなぎ合わせている。それは、バスケットボールのパスの回数を数えるようなもので、実は「ゴリラ」が見えていないのではないかと思うのだ。</p>
<p> そのゴリラとは何かというと、バーチャルとリアルが融合した、目に見えない新しい地平のことなのだろう。</p> — <p class="subtitle">【所長コラム】「0(ゼロ)グラム」へようこそ</p>
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