雑文

桜田勝景跡の歌碑

名古屋市南区貝塚町の桜田八幡社境内に桜田勝景の跡としてふるい歌碑がある しらべてみると大正4年の大嘗祭節会に詠進された短歌のひとつだったのでメモしておく(大正期大嘗祭の悠紀斎田は愛知県碧海郡六ツ美村中島字上丸にある早川定之助氏所有の田に勅定され、この斎田で抜穂された新穀を御饌とした)

皇位継承にともなう収穫祭である大嘗祭には、悠紀・主基としてえらばれた国郡の地名をよみこんだ短歌が国魂をやどす風俗歌・屏風歌として詠進されてきた伝統がある 大正期に二条離宮(今の二条城)にて賓客を招待してひらかれた大嘗祭後大饗(宴会のこと)では、会場である大饗殿の東北隅におく調度品「悠紀地方風俗歌の屏風」として、屏風2帖(各6枚組)に野口小蘋揮毫による四季の絵とその上部色紙形に黒田清綱(正二位子爵、宮内省御用係、歌人)詠進・揮毫による短歌とが飾られた この短歌のひとつが桜田勝景跡の歌碑に刻まれている:

春(櫻田霞ニ鶴)
年魚市潟汐みちくらしうちかすむ櫻田さして田鶴なきわたる 黒田清綱

「汐満ち来らし」はそろそろ潮が満ちてくるようだと根拠をあげて推測するとの義、「さして」は向かっての義(CF.神楽歌-大前張-難波潟(本座・末座)、万271・919・1163、古今913、夫木抄10148、新続古今17)

石碑翻刻(表):
悠紀殿御屏風歌桜田霞鶴
あゆちかた汐みちくらしうちかすむ
さくら田さしてたつ鳴わたる
正二位源清綱

桜田勝景跡地あたりは古来東側に干潟をのぞむ丘陵地で、ふるい地名に櫻村・元櫻田とあることから万葉のころにうたわれた桜田およびあゆち潟の最有力候補とされる ここからは潟の北東に瑞穂-八事丘陵(塩釜神社)および天白川上流方向、東~南にかけ相生山丘陵(針名神社)~鳴海丘陵(成海神社)~大高-名和丘陵(氷上姉子神社、昭39まで大高以南は知多郡)をみわたすことができる

詠歌状況の設定としての作者観察地を考察すると、(1)桜田遠景が春霞の先にありまた海面の様子の推移は隠れるか霞むかなどで見えない、(2)鶴の鳴き声が十分に聞こえその現在位置が音か姿から判断できる、(3)鶴は潮満ちてきたから干潟域でさらに餌をとるために上流方向へ飛びわたっていると推測でき向かう先には桜田がある、とのことから条件でしぼっていくと、観察地は鶴が桜田に向かって飛んでいると十分に知覚できる対岸の鳴海丘陵であり、海面の様子は潟表面が霞でおおわれているから見えないのである、となるだろう 屏風絵の影像とつきあわせるなら近景に鳴海丘陵(いまの地名で古鳴海あたり)、遠景に桜田のある笠寺台地(右丘陵群が桜田、左端の山が見晴台か)、それらのあいだに表面が霞たつ干潟(鶴里あたり)となる 上に引いた関連の古代短歌には「桜田あたりが霞んでいて、鶴がそこに向かっており、海面はみえない」とまではこまかく指定されていないから状況想像の自由度はたかい

参照
1『悠紀斎田記録』(愛知県1916、P.485-492、https://dl.ndl.go.jp/pid/954687/1/342
2『即位禮及大嘗祭後大饗第一日の儀』(登極令附式1909、『即位礼大嘗祭大典講話』(訂4版1915、P.301)に引用あり:https://dl.ndl.go.jp/pid/953941/1/174
3八木意知男『大嘗会和歌の世界』(皇学館大学出版部1986)
4吉野裕子『大嘗会 ― 天皇即位式の構造』(弘文堂1987)
5『岡崎市制100周年記念事業 岡崎まちものがたり 悠紀斎田詠進歌』(岡崎市2017、参照 2023-03-30、PDF300KBへの直リンクURL:https://cms.oklab.ed.jp/el/nanbu/index.cfm/7,248,c,html/248/20190327-140920.pdf
6『斎田記念 中島案内』(1915、PDF20MBへのリンクあり:https://dl.ndl.go.jp/pid/932592
7杉本まゆ子(宮内庁書陵部)『大嘗会和歌屏風覚書―再興以降―』(国文目白2021、リンク先リポジトリにPDF500KBあり:https://jwu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=3621
8千秋季隆『國文評釋神樂歌評釋』(C.~1900?、P.73、https://dl.ndl.go.jp/pid/1082439/1/41

(変更 2024-07-06)

古鳴海八幡社より1.4KM先の桜田八幡社の崖を望遠(右に桜台高校・ライオンズ桜台)
大正期大嘗祭節会の悠紀殿屏風2帖―悠紀風俗歌は題詞に四季・地名・景物を指定した4首、主基も同
明治期大嘗祭節会の悠紀殿屏風絵写2帖のうち1(宮内庁蔵)―悠紀風俗歌は四季の指定がなく2首だった

   ###